東京のプライドのお粗末な歴史についての、ごくささやかな内情の暴露

2019.9.7更新

大塚けんすけ(レインボー・アクション理事)

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日本における「ゲイ・プライド」は1984年の「IGA 日本」の発足によりはじまったとみなせるだろう。  今年はストーンウォール50周年であるとともに、日本のプライドの35周年でもある。 しかしこの間、プライドの密室体質とシスゲイ中心主義は、少なくとも東京では改まる兆しすらない。

88年に「IGA日本・大阪」に対し、「IGA」の名称の独占使用権を不当にも通告するなどした「ILGA 日本」(IGA 日本より改称)は、その後も分裂を繰り返しながら、94年には日本初の「レズビアン・ゲイ・パレード」を東京で主催した。
95年のパレード終了後より実行委員会の密室性・閉鎖性が批判されるようになり、96年のパレードでは国会に対する陳情を事前告知なくその場で採択しようとしたパレード執行部に対して批判が噴出、抗議のために代々木公園野外ステージの壇上に上がった反対派の女性に対し、男性のパレード副委員長が「レズのくせに何を言いやがるのか」という暴言を吐いた。
わたしもその場に居合わせたが、私見ではこの後ざっと15年以上は、この「レズのくせに」発言によるレズビアン活動家のゲイ男性活動家に対する不信が尾を引いた。

00年に「東京レズビアン&ゲイ・パレード」として再生した東京のパレードは、安定した運営主催団体がなかったため三年で中断した。
これらの反省から任意団体「東京プライド」が誕生し、05年にパレードが再開され、07年にはパレード実行委員の部分公募があるなど、ある程度の運営の透明性がもたらされた。わたしも最初の公募委員の一人である[1]
この年、パレード代表の主導により、かねてからの懸案であったパレード名の「東京プライドパレード」への変更も行われた。しかし翌08年には東京のパレードは再度中断し、実行委員会の上部に位置する理事会の決定により、東京プライドも解散が予定された。
この時点で00年度の実行委員長が突如として復活(Wikipedia にはデタラメが書かれている)、東京プライドを代表として引き取るようなかたちでパレードの再開を期したが、体制が追いつかず、結局開催は10年度まで先延ばしとなった。人材不足につき、わたしも2010年には実行委員会に復帰している。
10年度のパレード終了直後、代表はパレードボランティアの経験すらない新人のアルバイトを後継者指名した。その後の総会において代表は大量の委任状(その出所は郵便を受け取った代表と事務所関係者=アルバイトしか把握していない)を振りかざし、参集した圧倒的多数の反対会員の異論を冷笑した[2]。総会は紛糾し、東京プライドはその場で分裂、パレード実行委員は2名[3]を除いて残り全員が退任するという事態となった。
後継者指名された新人は東京プライドに残された資産をすべて消尽[4]するも、事業の継続に失敗し、舞台から姿を消す。指名した本人はそれ以前に帰郷している[5]

退任した実行委員のうち、わたしを含む8名が10年度末に立ち上げたのが「東京レインボープライド」(以下、TRP)である。 TRPはかねてから非常に批判が強かった酷暑の8月開催を回避、4月のGW開催を実現し、2012年に第一回を成功させた。この際、東京のプライドを一貫して後援してきた日本国厚労省や東京都福祉保健局、在京のHIV 諸団体の協力が全く得られず[6]、一部の大物[7]からは恫喝を含む妨害すらあったことは特筆しておく(わたしは彼から直接の被害を受けたひとりである)。
しかしこの前後、パレードの共同実行委員長3名(ゲイ・バイ・トランスの3名)体制から、代表1名(シスゲイ)体制への変更方針が密室で決定されていたらしかった。
パレードの終了直後、メーリングリスト上にて突如、共同実行委員長3名から代表1名制への変更と、代表への立候補の受付、そして立候補の名乗りが投稿された。
それまで1年半積み上げてきた慣例を破り、実行委員の全体会議を通さない突然の発表に、共同代表者はもちろん、実行委員の多くは困惑した(ただし一部シスゲイを除く)。その数週間後に開かれた実行委員会において、現共同代表のうちの一人が無投票で代表権を引き継いだ[8]。意思決定プロセスについての説明はなされなかった。わたし(我々)に言わせれば、これは明確な「権力の簒奪」である。せめて承認投票をするべきだとのわたしの主張は却下された。わたしの主張に対し慌てた様子で「必要ない」と言い放ったシスゲイの様子を見る限り、元東京プライド代表のような卑怯な多数派工作はしていなかった(できなかった)のだろうと想像される。
かかる事態により、前共同実行委員長3名のうち2名と実行委員若干名が、この場とその前後にパレード運営からリタイアし、そのうち1名はショックのあまりに長いこと精神の不調を患った。
わたしは2013年まで実行委員として参加、2014年までは実行委員の支援、2015年には2006年以来久々にいちボランティアとして参加したが、その間には1・「東京レインボーウィーク」という企画の共催の決定 2・現共同代表の一人であるトランス男性[9]の「東京レインボーウィーク」代表としての参加 3・「東京レインボープライド」と「東京レインボーウィーク」の合併[10]が、一部のメンバーによりやはり密室で決定され、事後に通告された。実行委員会に対し、納得の行く説明は全くなされなかった。その後もこうした密室運営は続いていると聞いている。
2018年パレードを見る限り、最初にTRPを立ち上げた8名のうち、残っているのはシスゲイの3名のみである。このうち2013年パレード以来の代表を含む少なくとも2名は、体制変更への密室会議に参加したことが強く疑われる。

このように日本、なかんずく東京のプライドは、ひとにぎりのシスゲイが運営と金銭面を仕切り、その他のLBTはそれに奉仕するという体制が取られ、毎年のように疲弊したLBTが実行委員やボランティア、ひいてはプライド自体を離れていくという構造になっている[11]
こうした構造に加え、パレード(とそれに伴うフェスティバル)の規模拡大もあり、今ではボランティアの数が圧倒的に不足しており、少なくとも去年からは会場出店団体から数を決めて人員を出してもらっているという。「ボランティア」の語源は「志願兵」であり、こんな徴兵じみた「頭数」はボランティアの名に値しないし、当日だけ来るような人員に、プライドのスタッフが備えているべき最低限度の知識が事前に教育されているとも思えない。

今回の仙台プライドは、一言で言ってしまえばこれら東京のあまりに情けないプライド史のコピーである。
あらたなプライドを築いていく宮城・仙台の方々に、この東京の恥ずべき歴史を報告することで、遅ればせながら、直接の関係者としての責任を果たすこととする。

最後に。
私の能力不足と無責任により活動を去っていったかつての仲間たちに、伏してお詫び申し上げます。
わたしが悪かった。

脚註

  1. わたしは前年(06年)にはじめてボランティアとして主催者側に立ってパレードに参加したのだが、ボランティアのあまりの待遇の悪さ(8月の炎天下、7時集合21時解散の肉体労働、とうぜんギャラも交通費も無し)と、最後に代表が全体挨拶のひとつもしなかったことに激怒し、ボランティアのために東京プライドを改革することを決意、2012年にようやくある程度それを実現した。
  2. 半世紀近く生きてきて、この総会以上に不愉快で腹の立った会合は他にない。温厚で知られていた実行委員のひとりは、文字通り席を蹴って部屋を出て行った。
  3. 残ったうち1名はやはり有償のアルバイトスタッフ、もう1名は後に東京プライド最後の代表となるHIV 団体のスタッフ。ふたりともシスゲイであった。
  4. 彼(シスゲイ)以前の東京プライドが毎年行っていた外部(ウェブサイト)への会計報告が行われることは、彼の次の代表が東京プライドを引き継ぎ、解散する直前まで行われなかった。この時点で、2010年時には数百万円(四捨五入すれば一千万円)あった東京プライドの資産はほぼ全て失われており、何に使われたのか遡及して調査することも不可能という説明があったと記憶している。そのページも東京プライド解散と共に即座に消滅した。
  5. 伝え聞くところによると、近年彼は東京に戻り、恥知らずにも東京レインボープライド運営への参加を申し出たそうだが、当然のことながら却下されたそうである。
  6. 「東京のパレードの分裂」に反対する、というのがその一応の根拠であった。
  7. 彼もシスゲイである。ちなみに前述した東京プライド最後の代表は、彼が代表を努めていたNPO の後任代表でもあった。
  8. その前後、「東京で初めての四年連続開催を達成したら代表を退任する」と聞いていたのだが、すでに八年度目に入っているようである。
  9. ちなみにわたしは東京プライド2007時代、そのトランス男性が地域支部長を務めていたボランティア団体に複数回参加しており、二回、直接にプライドパレードへの参加ないし広告出稿を要請したが、「まったく興味がない」とにべもなく断られたという過去がある。
  10. 2014年の合併の時点ではわたしは既に実行委員を退任していたので、これについては他の実行委員からの伝聞である。
  11. 厳密に書くならば、「ひとにぎり」以外のシスゲイももちろん離れている。

註記


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